very honored to be featured on It’s Nice That.
“Koichi and Takeko:
A tale of two grandparents and Japan through the 20th Century”
僕の比布のじいちゃんとばあちゃん、そしてうちの家族の話を懇切丁寧に紹介していただきました。本当に感謝です。
Project : “Tomatoes, a Bird, Takeko and Koichi”
日本語訳ーーーーーーーー
幸一と武子。二人の祖父母と20世紀の日本の物語
言葉 Jyni Ong
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発行日
2019年10月9日
髙橋健太郎は、祖父が亡くなる前、家族の写真を撮ることは安易な行為に近いと考えていた。「祖父が亡くなる前、髙橋健太郎は家族の写真を撮ることはずるいことだと思っていました。写真家の僕にとって、家族は簡単に撮れる被写体なので、足を使ったプロジェクトにはならないと思っていました。でも今は、皆さんがこのシリーズに抱いている興味を理解しています」と、現在進行中の作品「Tomatoes, a bird, Takeko and Koichi」について語った。「何か皆さんにも語りかけるものがあるんでしょうね」。
健太郎の母国である日本では、最も北に位置する最大の都道府県である北海道は、雪を頂く火山や天然の温泉、そして冷涼な気候で知られている。北海道には500万人以上の人が住んでおり、先住民族であるアイヌの人たちに由来する豊かな文化的歴史がある。北海道は9世紀に日本からの侵略を受け、それ以来、アイヌの人々は徐々に日本の社会に同化してきた。しかし、本州、四国、九州、北海道の4つの島に日本人の人口が増えていくにつれ、アイヌの土地への帰属意識はさらに薄れ、伝統は失われ、文化は吸収されていった。
健太郎の祖先も、仕事と農地を求めて本州(福島県)から北海道に渡ってきた一族の一人だった。今から6世代前の1880年代後半、彼の母と父は、後に壊滅的な原発事故を起こすことになる東北・福島県伊達市から北上し、北海道の島の中心に近い、小さな町のひとつである「比布(ぴっぷ)」に家を構えたのである。「ぴっぷ」とは「沼の多いところ」という意味で、札幌の北東146kmに位置するこの田舎町は、今では白い滝のようなスキー場と、夏に咲くイチゴで知られている。
私たちがこれから見ていく物語は、このぴっぷで始まる。1940年代後半、髙橋武子・幸一夫妻は、後にトマト農場となる土地を購入する。ピップで生まれ育った2人は、80年以上ものあいだ、ほとんど同じように農場で生活していたという。朝5時に起床し、種まき、栽培、収穫を行い、あらゆる種類のトマトを収穫して卸売りした。20世紀は、季節ごとに日本の激動の歴史が展開されていった。しかし、雨が降ろうが、戦争が起ころうが、繁栄があろうが、災害が起ころうが、武子と幸一は毎日毎日トマトを作っていたのである。
昭和40年代には近隣諸国を占領し、第二次世界大戦では大敗を喫し、世紀後半には空前の経済大国となり、髙橋夫妻の生活も変化していった。3人の子供(全員男の子)が生まれたことで、一家はあっという間に小さなアパートを手放し、1960年代にはより大きな洋風の家屋を建てたのである。
当時の経済成長を反映したこの家は、冷戦終結まで続いた繁栄を背景に、日本の文化の主流に、西洋の影響が垣間見える。このような状況を踏まえ、武子と幸一の新居は、現在も家族が所有するが、東洋と西洋の両方を体現している。畳やマホガニーの家具が、料理をする部屋、掃除をする部屋、寝る前の準備をする部屋に置かれている。武子と幸一が初めて登場するのも、そんな田舎の風景の中だ。孫の健太郎は、90歳近くになった彼らの柔らかな表情を、年長者や先人への頌歌ともいえる膨大な作品に収めている。
「彼らがどのように生きているのかを理解しようとしていましたし、もちろん過去との対話でもありました」と、健太郎は祖父母の写真を撮り始めた理由を語っています。東京の南に位置する横浜で生まれた健太郎は、北の島に住む父方の祖父母を訪ねることはほとんどなく、幼少期は5年に1度程度だったという。鉄鋼業で国を跨いで仕事をしていた父と共に日本、デトロイト、トロントを行き来しながら過ごし、その後、東京の大学に進学し、フリーランスの写真家として独立した。
英国より8時間早い首都の暗い部屋から、健太郎はIt’s Nice Thatスタジオに電話を繋いだ。ノートパソコンの画面には暗くなった夜の風景が映し出され、海外での生活で培った北米的なツーンとした発音が回線から聞こえてくる。ぼんやりとした映像の中で、彼は、そもそもなぜ写真家になったのか、2011年の東日本大震災から始まったことを説明していく。
1万5千人以上の死者と3,600億ドル以上の被害を出した東日本大震災のとき、健太郎は大学で社会科学を専攻していたが、それも終わりに近づいていた。震災が起きたとき、彼は「世界がいかに不確かであるかを実感した」と言う。日本の歴史上、最も強い地震の影響が目の前で明らかになると、「その瞬間、私はその映像に飲み込まれてしまいました」。「私は何かをしなければならない、今あるものを守るために努力しなければならない、と気づかされました」。
津波の後、彼は復興プロジェクトのボランティアに参加し、被災した写真の回復作業に従事した。中には水に浸かって傷んだものもあったが、健太郎にとってこのプロジェクトは、写真というメディアの重大さを明らかにする意義のあるものだった。「写真には記録する力があることを実感しました。「津波が来た後でも、紙の上にその影響を見ることができるのですから」。
その後、初めてのデジタルカメラを購入した健太郎は、数年かけて技術を磨いていく。その後、フリーランスの写真家として、さまざまなメディアで時流を撮影し続けた。しかし、2017年に母方の祖父が亡くなり、武子や幸一よりも身近な存在だった彼の死は、彼を一瞬立ち止まらせる。「こんなにも長い間、祖父母たちに会っていなかったんだ 」と気付いたと言う。祖父母が亡くなる前に写真を撮りたいと思ったが、それには祖父母たちと長い時間を共有しなければならない。それならばとその後、数年をかけて定期的にぴっぷに会いに行き、その集大成として生まれたのが、健太郎の情味あるシリーズ「Tomatoes, a bird, Takeko and Koichi」だ。
「どんな状況であれ、祖父母を記録したかったんです」と彼は言う。北海道の澄んだ自然光を最大限に利用し、演出なしに撮影されたこのシリーズには、できるだけ多くの祖父母との思い出を記録したいという孫の気持ちが込められている。武子と幸一の仕事に合わせて毎朝早く起こされたこと、幸一が必ず9時半には寝ることを守っていたことなど、農場での生活の様子を思い出しは語る。しかし、武子は「僕が寝るまでずっと一緒にいてくれました」と振り返る。「何故だろう。おそらく僕と会話をしようとしてくれていたのかもしれません。でもそれが嬉しかった」。
一方、幸一は「あまりしゃべらない」という。孫は彼を「典型的な日本人」と表現する。話しかけられないとほとんど無口で、ほとんどの場合、感情を読み取ることができない。しかし、健太郎にとって、その沈黙は決して無関心の表れではない。「私にとって、彼はいつも毎日を精一杯生きているのです」。イギリスの教室では欧米人の視点からはよく聞かれるが、日本人の視点からはあまり聞かれない第二次世界大戦を経験した青年時代、幸一は徴兵制に怯えていた。
徴兵通知を受け取ると、1945年8月15日に入隊するよう指示された。因みにその日は、天皇ヒロヒトが日本の降伏を宣言した日であり、幸一さんは戦争に行かなくて済んだことを喜んだ。「あの時代に生き残った人、生きてきた人は、真面目な人が多い」と健太郎は言う。「生きることに真剣なんだ。あの時代に生き残った人、生きてきた人は真面目だ」。
一呼吸おいて、当時の祖父の立場を考えてみよう。今の健太郎とそう変わらない年齢である。「今の若い人たちは、そんなことはないかもしれない。必要なものはだいたい何でも揃っている上に、考え方が全然違うように感じます」。幸一のように、生き延びることに一喜一憂する時代ではない。それなりに恵まれた生活の中で、それぞれが生きる意味を模索している。
健太郎は、トマト畑でのスナップ写真を通して、この世代間のギャップを捉えている。彼らの循環的な生活は、ある人には平凡に見えるかもしれないが、戦争を経験した人たちが切実に求めている静けさを、それぞれの写真が体現している。そこには、幸一の余韻のある表情や、武子の動きの途中の写真などが登場する。これらの写真は、健太郎の咄嗟の撮影技術の儚さを表しているだけでなく、一瞬一瞬を精一杯生きようとする被写体の心をも表している。
広島、長崎に核爆弾が投下されたとき、「日本国民のほとんどはそのことを知らなかった」と健太郎は祖父の記憶を語ってくれた。軍と政府はメディアを検閲し、フェイクニュースのように事態を隠蔽し、日本は「良い意味」で他国を征服していたと国民に信じ込ませようとした。沈んだ口調で彼は続ける。「祖父はこの種のメディアを頼りに、すべてが本当に起こっていると思っていました。でも、そうじゃなかった」。
89歳になった夫妻は、昨年、日本文化の重要な節目を迎えた。88歳の誕生日は、「北寿」「米の飯」と呼ばれ、縁起の良い日だ。88という数字は、漢字では「米」に似ており、古くから純潔と幸福の象徴とされてきた。祝いの席では、「頭巾」と呼ばれる伝統的な金の帽子をかぶり、「ちゃんちゃんこ」のベストを着て、88歳の人を讃える盛大な宴が催される。
2018年の夏、北海道は例年になく暖かい夏を迎えていた。その日、猛暑を除けばいつもと同じように、武子は畑に出て仕事をしていた。7月下旬、健太郎は東京に戻り、幸一は足を痛めて病院に通っていた。トマト畑では気温が35度を超え、北国の島に異常な暑さが押し寄せていた。
ネット環境が不安定な中、この話題に触れたときの健太郎の口調や態度は明らかに変わっていた。あの夏の話になると、「この話をしていると涙が出てきます」と言う。その月の最後の日、幸一がまだ病院で足の入院をしている間に、武子は畑でひとり熱中症で倒れた。「幸いなことに、その日のうちに近所の人が見つけてくれた。そして祖父が発見者じゃなかったのがよかったのかどうか、それはわからないけれど…」。祖父母の写真を撮り続けた充実した1年と少しを経て、健太郎のシリーズはここで突然、武子の死という形で幕を閉じた。
年長者を記録するために始めたプロジェクトが、突然、予想よりも早くそれを終えることになったのだ。写真は今や、残された大切な人たちにとって、晩年の思い出や生きていた証を収めた聖遺物となっている。健太郎は武子さんの死後、葬儀、家族の悲しみ、夫・幸一の苦しみなどに直面しながら、武子さんへの弔いと、幸一さんの存在を忘れないために、このシリーズを細々と続けている。「武子さんが亡くなって、もう武子さんの写真を撮れなくなってしまったからこそ、この写真たちを撮影できていたことに感謝しています。でも、これだけの写真を撮っていたのは、本当にそのためだったんです」。
葬儀では、武子の写真を他の親族に見せた。トマト農家に触れる機会のなかった親戚の多くは、孫のレンズを通して幸一と武子の生活を初めて目にしたのである。彼は、インタビューの中で、農場で過ごした日々の話を次々と語り、彼女を思い出していた。武子はよく孫に「カメラを置きなさい、私の写真はもう十分撮ったから、もう撮らなくてもいいって」と言っていた。しかし、彼はそれを止めることができなかった。健太郎は武子の厳格で真面目な性格を説明したが、写真からは私たちにはおばあちゃんのような親しみやすさと温かさしか感じられない。その健太郎の写真は、彼自身の祖父母への思いを鏡のように映し出し、一枚一枚のフレームに愛情が込められている。この胸を打たれるシリーズは、親密な家族関係を目撃させるための扉を開いてくれる。そして武子と幸一が健太郎と心を通わせるその関わりの様子を、私たちは垣間見るのである。